[樋堀大師]
せっかく歴史について調べてみたので、お寺と神社は元々どこにあったのか、知りたくなったので調べに行ってみた。
現地に行ってみると、大師堂の横にはお墓があったので、昔はお寺があったと言われればそうなのかもしれない。
樋堀大師の歴史はこんな感じらしいです。
かってこの地にあった、正福寺に文政のころに一人の旅僧が弘法大師などを描いた3つの掛け軸を背負って来訪し数日宿泊したという。
旅僧が、寺を去ろうとすると、急に足腰が痛み出発ができなくなったという。再び出発しようとすると、またも足腰が思うようにならなかった。旅僧は「これはきっと大師様がこの地にとどまりたいとの思召しではないか」と悟り3つの掛け軸を、正福寺に残し旅に出ることにしたところ何の異常もなくなり旅を続けることができたという。
この大師様については、古老からの話や本寺の最勝院にも伝えられているところによると、首の大師を樋堀、胴の大師を西新井、手足の大師を川崎として関東三大師といわれている。
いくらなんでも関東三大師っていうのは、ちょっと誇張しすぎじゃないか!?
普通は、川崎大師、西新井大師、佐野厄除け大師の3つを連想すると思う。まあそれだけ地元の人に大切にされているっていうことなんだろう。
[最勝院]
正福寺の本寺が最勝院だと書いてあったのでそちらにも行ってみたが、門が閉まっていて中に入れなかった・・・
最勝院の歴史はこんな感じらしいです。
最勝院は、新義真言宗智山派の寺院で華林最勝院慈恩寺という。最勝院のある付近は、粕壁でも寺町と呼ばれおり、近辺には寺院が集まっていて往時の春日部の面影を残している。
また最勝院の本堂の西側の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。春日部重行は、南朝の臣として後醍醐天皇に仕え、元弘の乱などで功をなしたことなどにより上総の国山辺南部とこの春日部の地頭を任せられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し敗れ、京都修学院鷲の森で自刃したといわれる。
またこの人の苗字が春日部の地名の由来になっているらしいです。